電車内のマナーについて

電車にまつわる話しは多々あって、不思議な体験などもある。
今回は、電車のマナーについて最近すごい腹ただしいことについて書く。
僕は帰り道、いつもとある駅から電車に乗り込み、大きいターミナル駅を経て自分の街にかえる。
乗り込む電車はいつもある程度人でいっぱいで座れないが、ターミナル駅でほとんどの人が降りるのでそこからは座れる。
が、定期的に許しがたい輩たちが出現する。
立ってる自分たちは、ターミナル駅で大量に降りる人達のために道を開ける。
そこに、ターミナル駅から乗り込む人達の中で、乗客達が降りてる途中でそれをかき分けて乗り込み、降りる乗客のために道を開けてる僕らを押し退けて空いてる席に座ろうとする暴徒が少なからず存在する。
なんでやねん。
僕らは、そいつらより前から電車に乗っていて、ターミナル駅で乗客達が降りてやっと座れるタイミングを待ってたのに、なんで新参者がそれを押し退けて座って良いはずがあるのか。
すっげぇイラっとするので、微妙にそういう輩が座れないように防御したりするけど、そうすると降りる人達の邪魔になったりして、すみませんって思ったりする。
そうして、自分の卑しさにも辟易としたりもしながら、今日も帰る。

関係ないけど
秋の匂いって、その澄んだ匂いが香ってくるとなんか胸をぎゅっと捕まれるような不安感を覚える。
何か大事なものを忘れてるような、でもまあ良いかと思える清々しさも同時にある。
もうそろそろ秋です。

鼻ピアスとスマホのリングホルダーについて思うこと。

とりあえず、このトピックから片付ける。

前々から思ってたことだけれども、鼻ピアスってピアスの良さが全くわからない。
あれで、洒落乙度数があがるようには見えないし、不潔な気がする。
とは言え、それは僕にその類いのファッションセンスがないだけかもなのでそれはいいんだけれども、問題はケンカになったとき。
ファッション100%で付けている人はいいんだけれども、示威的につけてる人の場合、つまり、「ヤベェぜ?俺は。」って人。そういうアウトローぶりを見せる人も少なくないと思うけど、逆にヤベェって思う。
相手にかっこうの攻撃のチャンスをバリバリ与えてしまってるやん、と。
鼻のピアスつかまれて、ブリンってされたら戦意喪失レベルだぜ。

この流れで、スマホのリングホルダーについても同じことが言える。
スマホいじってる状態でケンカになり、スマホを掌の反対方向にブリンってされると、リングに通ってる指もブリンってなって、それはもう、とんでもないことになりますよ。
だから、スマホを持ってるときは、リングホルダーを付けてまでスマホを扱うように、人にもソフトに接するしかない。

にしても、スマホのリングホルダー、便利そうやねんなぁ。

今後書いておかなければならない(と勝手に思ってる)トピックス

○幽霊の存在についての私見
ダイワハウスのCMについて
○電車内で起きる不思議な出来事について
○規範や倫理的慣習の壁に直面しつつ、それを乗り越える際の一つの心理作用についての私見
○ガムをめっちゃカミカミする人について
○アジョシについて
○鼻ピアスとスマホのリングホルダーについて

残忍さを描くことを目的にする作品に思うこと②

続き)
一番嫌いな作品、それはこの世界には間違いなく存在するであろう凄惨極まりない出来事を描くことを目的とするフィクションの作品だ。
ここで対象とする凄惨極まりないとは、言葉にするのもはばかれるので、連想ワードを並べるなら、拷問、エログロ、ナブリコロス、本能や欲望のおもむくまま、イタブル、などの極度のものだ。
そういうものを、嫌と言うほど見せつけておいて、『ドヤッ』みたいなシタリ顔をする作品、混沌や狂気といったものにざっくり包み込んで「深いっしょ?」的芸術作品然としてるやつ、『平和ボケしてるお前らに現実を見せてやる』的なスタンスで描くあくまで創作の映画や小説、漫画にはムシズが走る嫌悪感を覚える。
それを描くお前らは、本当にその底無しの闇を見ながら、それを人に提示して良い気になれんのか?って思う。というより、本当にその闇を覗きこんだもの、体験したものは、それは出来ねぇだろうが、あめぇのはどっちだって思う。
おそらく僕ら人間は、本当のそんな闇に対峙し、否応なく巻き込まれたとき、精神が耐えられない。
ハードボイルドみたいに、スタイルで受け止められるほど、そういう出来事は優しくない。
そういうことを描くこと自体を決して否定しない。
だから、勝手な自分の願いだけれども、描くなら以下の3つの方法しかないと思う(今のところ)。
①とことん凄惨、残酷な行為をする側に立って描く。
被害者の視点にも立たず、その気持ちも、また周りの評価にも想像を馳せることをせず、ただ自分の嗜好として描く。
それなら、論理的には意味がわかる。
その場合、その作者は自分にその凄惨極まる出来事が降りかかったとき、死ぬほど自分の想像力の欠如を憂いていただいたら良い。
②自己の恣意や思いを挟まず、出来るだけ出来事を客観的に描く。
これはとんでもなく難しいと思う。その作品を作りながら、そこに恣意を出来るだけ挟まないでいること。出来事に謙虚でいること。でも、そういう作品は存在するし、それは僕なんかからしても、すごく素晴らしいものだと感じられる。
③そういう作品を描くなら、その作者が覚悟を決めているもの、責任をとろうとするもの。
端的にいうなら、その作品に出てくるその悲惨極まりない出来事に巻き込まれている人物にひたすら寄り沿って欲しい。
ハッピーエンドにはもはや出来ない、それなら、とことん作者自身がその登場人物を愛して欲しい。

以上

凄惨さを描くことを目的とする作品に思うこと①

僕は、残忍さや凄惨な出来事をテーマとして描く映画や小説、漫画といった作品の中で、それをひたすら描いて「ドヤッ」みたいなものが一番嫌いだ。
ブログなので、以下でそれについて勝手な私見を詳述していく。
その前に、2番目に嫌いなのがひたすら残忍な描写をしときながら最後にはその行為者には『実は』的な過去があって、フワッとハッピーエンドみたいなやつであることと、残忍描写が目的でないアクションものは許せる(凄い勝手な)、ことを前提にする。
2番目について、少し言及させてもらうと、かなり昔の自分がかなり子供だったときに見た金八先生の話しをする。
その作品は、一話目に生徒がいきなり教師をボッコボコにして病院送りにする。今でも思い出せるほどに、ボッコボコにするショッキングな映像だった。
それなのに、話しが展開するほどに、その生徒の『心の闇』が過去の可哀想な出来事とあわせて浮き彫りになり、なんやかんやでハッピーエンドになる。
子供なりに見てた僕は「なんでやねん!」って思ってた。
この『心の闇』の取り扱い方についてはずっと思うところがあるので、いつか書く。
にしても、先生を半殺しにしておいて、実は行為者の方にも事情があった、なんてことでふんわりハッピーエンドって。
一番気になったのは、当時問題になってた『キレる子供』ってテーマありきで、普通それでボッコボコにするか?って演出で、凄惨な映像を見せる安易さにすげぇ腹が立った。
メインテーマと通低するけど、常々思うのが、極度に凄惨な出来事を描くなら、ちゃんと覚悟決めろって思う。
というわけで、長くなってしまったので、メインは次で書きます。

リング-らせん-ループ そして『S』

昨日、鈴木光司の『S』を読み終える。
まさに、『リング』、『らせん』から紡がれる『ループ』する世界を三次元の『S』で切り取ったような一部の世界の後日談だった。
リングは刊行されてしばらくたって読んだので、すでに映画がとっくに公開されていて、その映画も見ていなかった(なんか昔から流行りに乗るのはカッコ悪い的なカッコ悪い矜持があった。)。
だから、やはり、とっくにリング三部作の最終章たる、ループも刊行されてたので、一気に三冊を読んだ。
衝撃だった。
ホラーから始まり、それを科学的に解き進めるサスペンス、そして、謎の解明と答えのあり方。
その答えのあり方は、小さいころから思っていた世界の構造への一つの答えであり、やっぱり可能性に過ぎないとしてもその可能性もありますよね!って感じで興奮した。
なんにせよ、後付け感はないとは言えないけど、それでも素晴らしい整合性を保った、素晴らしい展開の物語だった。
なので、映画で様々なリングの続編が出る度に
『正確には、リングはホラーじゃねぇ』って周りの人には愚痴った。

そして、今回の『S』は、リング、らせん、ループの後日談だった。
この物語群を見てきたものからは、ありがとうございますって物語だったが、
個人的にはラストが凄い尻つぼみで残念だった。
他にも残念な点はあるが、その中でも真の主人公が現実世界の愛を貫き通してなかった点が特に期待を裏切られた感はあった。
それでも、あの三部作の色は褪せない。

そこで、ずっと気になってたけどやることがありすぎて敬遠してた、この鈴木光司氏の『エッジ』についに手を出してしまった。
また、読んだら感想を書きます。
ループする世界に、希望を込めて。

ライザップと寿司屋の女将さん

近くにある年季の入ったお寿司屋さんにこの前からお昼を食べに行き始めた。
お寿司屋さんと言っても、地元に馴染んだお店で、とても安くお寿司とそばを食べることができる。
そこは、高齢の女性が二人で切り盛りしており、とても愛想がよく、常に笑顔をたたえている。
そして、この二人は昼時の韓国ドラマをすごく楽しそうに見ている。一つの韓国ドラマが終わると、すぐ別のドラマにチャンネルを変えて、ちらっとこっちを見るけど、僕は特に気にしてない風にご飯を食べる。
今日は、時間帯が違ってサスペンスをやはり嬉々とした表情で見ている。その一場面で、男前の少しとうのたった俳優さんが料理する場面があった。
それを見て、「最近の俳優さんは、料理も上手いもんねぇ」と話しをしてる。
でも、明らかに手元だけの映像だけで、他に料理を作ってる人がいるっぽかったけど、なんか喜ぶ二人を見てると、そういう解釈でも良いんだろうと温かい気持ちになる。
そして、cmに入り、それでも「この女優さんは昔から綺麗だったもんね」と二人の会話は弾む。
しかし、今人気のライザップのcmが流れると、ふっと無表情になり、
その無の表情のまま、cmをやりすごすと、
「もやし、あったやんな?もやしの準備しなあかんね。」
ともやしの準備を、始めた。
ライザップには、この二人の興をそぐような、もしくは、何かもやし的な物の準備を促すような作用があるのか、
以降、注視していこうと思う。